エッセイ 「豊臣秀吉が嫉妬した男」
嫉妬、やきもちをテーマに、1200±100字でエッセイを書け、といわれたらどうしますか。
今月の例会で発表した久方ぶりの歴史モノで、最新作です。
***************************
「豊臣秀吉が嫉妬した男」
応仁の乱(1467年)以降、ほぼ一世紀に及ぶ戦国時代を収束させ、日本を統一したのは豊臣秀吉であった。
その秀吉を天下人たらしめたのは、軍師黒田官兵衛孝高(よしたか)である。
しかし秀吉は、生涯にわたって彼を支え続けた官兵衛を、あまり優遇しなかった。
知行は北九州豊前(今の福岡県行橋市、大分県中津市)で十六万石、官位は従五位下勘解由次官に過ぎない。
そして秀吉の死後関が原の乱(1600年)の後、この地で没している。
この官兵衛の嫡子長政は、関が原では家康に従い、貢献度筆頭として一躍九州筑前(福岡県)五十五万石、従四位下筑前守に任ぜられ、明治維新まで続く。
私は先月岐阜市を訪れる機会があり、岐阜城に上ってみた。
標高はそれほど高くないが急峻な山頂に、よくも築いたものだと感心させられる。
難攻不落を誇ったこの城の城主は斉藤道三で、当時は稲葉山城と称した。
織田信長の一将校であった秀吉は、調略と奇襲でこの城の攻略を成功させた。
そのときの軍師は竹中半兵衛重治で、この半兵衛が自分の後継者として秀吉に推挙したのが黒田官兵衛である。
信長は本拠をこの城に移し、地名を岐阜と改め、城下町をつくり楽市楽座
を広めた。
その信長が京都本能寺で、天下布武の志半ばにして倒れたとき「今こそ天下制覇の機会」と秀吉をその気にさせたのは、黒田官兵衛その人であった。
それ以来秀吉の経験する大作戦は、ことごとく官兵衛が立案し行動し、成功させてきた。その智謀は限りない。
しかし、純粋参謀型の竹中半兵衛に対して、黒田官兵衛ははるかに野心家で、自信過剰であった。
自分こそ天下制覇をなし得る人材と、心中深く秘めていたと思われる。
その自信過剰がたたり、織田信長に反旗を翻した荒木村重を、その居城有岡城に単身で説得に行き捕らえられ、環境劣悪な土牢に一年余も幽閉されてしまう。
救出されるまで生き抜いたが、この獄中生活で足が萎え、皮膚病を患い、生涯全治することはなかった。
しかし、官兵衛の秀吉に対する忠誠心は、生涯変わることは無い。
全国統一を成し遂げた秀吉が、あるとき殿中で側近に問うたこんな逸話が残っている。
「わしが亡き後、天下を取るのは誰だと思う?」
側近はさまざまな憶測を述べたが、秀吉はかぶりを振り
「黒田官兵衛、あの足萎えさ。今でこそ十六万石だが、あいつに百万石も与えてみろ、わしが生きていても天下を取られてしまう」
人たらしの名人といわれた秀吉は、官兵衛の秘めたる野望を見抜き、その比類なき智謀に嫉妬していたのである。
これを伝え聞いた官兵衛は家督を嫡子長政に譲り、四十四歳の若さで領地の中津城に隠居してしまった。
おそらく身の危険を感じたのであろう。
黒田如水(じょすい)と号した隠居後も、その野心的な活動は続いて関が原の乱を迎える。
私はずっと以前、仕事で中津市を訪れ、復元された中津城を見学したことがある。
若さもあり、日本史にまだそれほどの興味もなかったから「ふーん」で終わってしまったのが、今では残念でならない。
(了)
-付記-
黒田官兵衛孝高の生涯は、司馬遼太郎の長編小説「播磨灘物語」に詳しい。官兵衛は勘兵衛とも書くが、ここでは播磨灘物語に習う。インターネットでも、ウィキペディアをはじめ、黒田如水、黒田長政に関するページは沢山ある。
教室の先生の教えのひとつで、今でも心がけていることがある。
「文中のどこかに自分がいる、というスタンスで書け。そうでないと、ただの解説文になってしまう」」
今回はあまり茶目っ気を出さず、重厚な文芸作品?を心がけた。黒田官兵衛についての逸話は沢山あり、取捨選択に苦労して、何とか本文1280字にまとめた。
写真は雨の稲葉山城からと、麓の公園にある岐阜県立博物館。
| 固定リンク
「文化・芸術」カテゴリの記事
- 第27作 「じんべぇざめ」 が完成しました(2012.04.26)
- 第26作 アオリイカが完成しました(2012.04.01)
- エッセイ 「お早うございません」(2012.03.13)
- PC水彩画第25作 「メガネモチノウオ」が完成しました(2012.03.01)
- エッセイ 「まとうだい」(2012.02.25)

コメント