0047 京都の本能寺
歴史小説の大家、早乙女貢さんが亡くなりました。
硬派で独特の作風、ライフワークであった歴史小説「会津士魂」は、全21巻の大作だそうです。忍法モノもありました。
その早乙女貢氏の著書を、参考文献にしたエッセイをご紹介しましょう。 例によって表記は縦書きのままとします。 残念ながら本能寺の写真はありません。
本文には関係ありませんが、君が代に出てくる「さざれ石」の写真です。
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「本能寺」
京都の中心街を東西に伸びるメインストリート、御池通りは地下鉄駅のある官庁街だが、市役所に向かい合って古刹があるのがいかにも京都らしい。法華宗総本山本能寺といい、戦国時代の覇者・織田信長終焉の地である。
天正十年(一五八二年)六月二日未明、織田信長は配下の武将・明智光秀の謀反により、宿舎にしていたこの寺でその波瀾に満ちた生涯を閉じた。
天下布武、つまり武力による天下統一を目指していた信長は、中国戦線で西国の雄・毛利元就と対峙していた羽柴秀吉を支援するため安土を出陣し、本体を先発させたため宿舎の警護には、わずかの親衛隊しかいなかった。
このとき本能寺は自刃した信長の遺体と共に焼け落ちている。
未明の襲撃者が明智光秀と知ったとき信長は「是非に及ばず」と、脱出の不可能を悟ったという。作家・早乙女貢はこの言葉を「日向めの謀反じゃ、万に一つの手落ちもあるまい」と解釈している。歴史上の常識では光秀は冷徹で緻密な謀反人のイメージが強い。
明智十兵衛光秀は北近江の名門、土岐氏の血筋で戦術戦略共に優れ、鉄砲の名手で戦国の野戦司令官には珍しく、文武両道の教養ある武将であった。
絶世の美女といわれた細川忠興(光秀の盟友・細川藤孝の嫡男)の妻ガラシャは、光秀の娘である。
領地の丹波亀山(現在の京都府亀岡市)では治世につくし、領民から名君と慕われていた。室町幕府第十五代将軍・足利義昭に近侍し、朝廷の信任も厚い。日向とは光秀の官位・日向守のことである。
信長は光秀の能力を高く評価していた。しかし最高権力者である自分に、毛並みと教養をひけらかし、何かと口出しする小憎らしい奴でもあった。優秀だが可愛げが無いのである。無学だがすべてに如才ない秀吉とは、何から何まで対照的であった。
あるとき秀吉が難航している中国攻略を批判し、信長に建策して逆鱗に触れた。領地をすべて没収され、即座に中国に出陣して秀吉の配下に付けと命じられた。敵から切取った領地を与える、というのである。
日ごろから見下していた秀吉の配下につくなど、誇り高き光秀の耐えられるものではない。また領地が無ければ一万三千の軍勢を維持することもできない。
光秀にとって、まさしく窮鼠猫を噛んだのが本能寺の変なのである。
私は在阪時よく京都を歩き、本能寺も訪れた。「ここで信長が亡くなったのか」と感慨深かったが、実はその後何回も移転され火災に見まわれ、昭和三年に再建されたものである。
感激しているのは旅行者だけで、地元の人たちにとってはただのお寺に過ぎない。
(了)
(参考文献: 「明智光秀」 早乙女 貢 著 成美堂出版)
課題-1 「可愛げ」 (1080字) 2002.03.20.
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